2003年5月18日 車社会の光明

昨日、ベンツを愛用している友達の話を書きました。 ベンツでホテルに乗り付けると、 ドアマンの対応が違うという話をしてくれた友達の話です。

実はこの話にはどんでん返しがあります。

実を言うと、彼女がベンツに乗っていたのは"過去"の話なの。
その後、彼女は住宅ローンを組んで家を買い、ベンツを手放しました。 "国産の車なんぞには乗り換えられない"と言っていた彼女が、今は国産車に乗っています。

どうしてそんなことができたんだと思う?

うさぎが思うに、それは、彼女が自分の優越感をちゃんと意識していたからだと思うの。
"ベンツを手放す"ということが自分にとってどういうことか、彼女には分かっていた。 ホテルに乗りつけたとき、他の車と同等に扱われることだ、と。
だから逆に、"それさえ諦めればいいんだ"、って踏ん切りがつけられたんだと思う。

それはおそらく、苦渋の決断だったと思います。
今まで当たり前のように享受してきたものを手放すのは、人間、本当に勇気が要るから。
「ある日を境にトイレットペーパーを買うことを諦め、別のものでお尻を拭うことにした」 ――という決断に近いものがあったと思う。 (ああ、最近うさぎって下痢腹だから、こういうたとえしか思いつかないわ‥)
うさぎの勝手な想像だけど、 国産車に乗り換えてから彼女、ホテルに車で行くの、やめたんじゃないかなあ。

うふふ、昨日の日記を読んで、ベンツを愛用している彼女のこと、 「なんて鼻持ちのならない人だろう」って思った方もいらっしゃるかもしれませんね。

でも、うさぎはそうは思いません。
ホテルの対応の良さを、自分自身の偉さだと勘違いせず、車のせいだとはっきり 認識していた彼女って、すごいと思う。

人の心の中には、他人に話したら白い目で見られそうな部分がいっぱいあります。
だけど、そういう部分を適当にごまかして知らん顔をしてしまう人よりも、 はっきりと認識した上で、折り合いをつけていく人が、うさぎは好き。
自分の"弱さ"や"愚かさ"そして"葛藤"――。
そういった部分を、うさぎに見せてくれる人が好き。
そして、うさぎが見せたそうした部分を、一緒に笑い飛ばしてくれる人が好き。

自分の中にある優越感にフタをしてしまうのは簡単なことです。
たとえば、ベンツという車の魅力をその堅牢性や走行性だけで説明し、 そこで終わりにしてしまうこともできる。そっちの方がずっと簡単。
だけどそこで、"優越感"という、人聞きの悪い感情の存在をも認めることって、 けっこう大事なことだと思います。
心の奥で感じ取っているのに、それを意識しないでいるのはとても危ういから。 たぶん、一度ベンツに乗ってしまったら最後、 国産車に買い換えるという選択肢が見えなくなるのは、感じているはずの優越感を 無意識の中に閉じ込めてしまっている人の方じゃないかなあ。

そりゃあね、一番良いのは「車の車種による序列に無関心でいられること」かもしれない。 イノセントでいられれば、それが一番幸せ。 うさぎ自身、車の車種による序列に無関心でいられる自信がないから、 車を持たないことで"圏外"に退避していられてラッキーだったなあ、と思うのだし、 それでもなお無関心でいられないからこそ、"憂鬱"になりもするのです。

だけどそれでも、「無関心でいられない」以上は、ちゃんと認識していたい。 それが"次善の策"だと思うから。 無関心でいるフリをしていては、何一つ得られはしないから。
うさぎは、車の車種による序列に無関心でいられる自信のない自分を 情けないと感じつつ、同時に、それに気づいている自分を愛しています。

"憂鬱"になればこそ、そこに"光明"も生まれる。
現状が把握できてこそ、次の一歩が踏み出せる。
"ベンツは手放せない"と言っていた友達が、ベンツを手放したように。
パンドラの箱から、ありとあらゆる災厄が飛び去ったあと、ハコの隅に希望が残ったように。

無意識の箱を開け、まず自分の気持ちに気づくことからはじめよう。
臭いものにフタをせず、臭かったら臭いと言おう。
そして、さまざまな"憂鬱"の後に残った"希望"を勝ち取ろう。

それが、うさぎが日記を書いている理由です。