2003年5月28日 HOME、MY SWEET HOME(その10) 入居

いよいよ入居することになりました。
カギの引渡しは、なんと結婚式の2日前! 本当なら2、3ヶ月ほど前に引き渡してもらえるはずが、 工事の遅延によりずれ込んで、ギリギリになってしまったのです。

けれどそれは却って好都合でした。
なぜなら、公庫付きのマンションは、 カギの引き渡し日からすぐに入居しなくてはならないという決まりがあり、 結婚に先立ち、先にきりんが引っ越して住みはじめることになっていたからです。
うさぎにしてみれば、これは不服でした。 二人で買ったマンションなのに、きりんが先に住み始めるなんて、ズルイ。
だから、カギの引渡しが遅れたのは、うさぎにとっては好都合だったのです。

ただ問題は、新居の準備を整える時間がないことでした。
結婚式の2日まえに、自分たちがもともと持っていた荷物――本やら衣類やら 実家から貰った食器やら――は実家と新居の間のピストン輸送で、やっと運び込みましたが、 家具や電化製品といった新規購入品の搬入は、結婚式のあとということになりました。

照明器具を取り付けるのもあと、ガス屋さんにガスを使えるようにしてもらうのもあと。
結婚式を終え、その晩は披露宴を挙げたホテルに泊まって、 翌日新居に帰ってきたきりんとうさぎは、電気もつけられない暗い部屋に、 先日運び込んだ荷物だけが雑然と積まれている状態をみて、呆然としました。

つい昨日は、 介添えさんがなにくれとなく世話を焼いてくれる、いいご身分の花嫁さんだったのに、 今日は、電気はつかない、ガスは通っていない、電話もなければ敷いて寝る布団もない、 ないないづくしの不便な状態に投げ込まれたのです。
何か一つやろうとしては、「あ、そうだ、コレがないからダメなんだっけ」と諦める。 その繰り返しでした。

さまざまな不手際もあり、結局、一通りのものが揃うまでに一週間かかりました。 普通一日で終わる引越しに、一週間もかかったのです。 そしてその一週間は、世にも不思議な日々でした。

最初に困ったのは電気でした。電気自体はすでに通っていたものの、 照明器具がついていないので、あらかじめダウンライトがついたトイレやお風呂以外、 灯りが付けられませんでした。
ちゃんと照明器具屋さんを呼んではあったのですが、 きりんとうさぎが新居に到着するのが遅れたため、帰ってしまったようでした。
慌てて近くの公衆電話から電話し、もう一度来てくれるように頼んだのですが、 その間にも陽は落ちてゆきます。 ベランダから差し込む秋の日差しが次第に弱々しくなり、 部屋の隅の暗がりがどんどん広がってゆく中、 "早く来て!"と祈るような気分で照明器具屋さんを待ちました。
日没の時刻ギリギリになってようやく照明屋さんが現われたときには、 その方が神様に思えました。

次に困ったのは、寝具がないことでした。
これもまた、客用布団を頼んでいた布団屋さんに帰られてしまったのです。 そして、もう一度来てくれるように頼んでみましたが、断られました。
おまけにベッドを頼んでいた家具屋さんの配送部門が日にちを勘違いしてベッドも来ない。 おかげで、掛け布団はないわ、敷布団はないわ、 あるものといったら、実家から持ってきた毛布とタオルケットだけ。 そろそろ肌寒くなってきた秋の夜長、床にぺらぺらのタオルケットを敷き、 座布団を枕にし、薄い毛布を一枚かけて、震えながら寝ました。

ガスが通ってなかったので、湯沸しポットでお湯だけわかし、その日の夕飯は ウェディングケーキの残りと、近くの店で買ってきたお寿司で済ませました。
テーブルもなかったので、押入れ用のプラスチックケースの上に、ダンボールを広げて その上で食事しました。

電話の回線工事が遅れ、一週間、離れ小島のような電話なしの生活。
タンスが来ないから、服は部屋に山積みです。
おまけに、結婚式の日に降り始めた雨がそれから一週間降り続け、 部屋に張り巡らしたロープから、洗濯物がジャングルのように垂れ下がっています。
梅雨の時期でもないのに、まあよくこんなに降り続けるものだと感心したほどです。

結婚から一週間経ったある日のこと、ついにうさぎは泣き出してしまいました。
毎日毎日暗い空。
一つ何かをしようとするたびに、いちいちその道具がないことに気づかされる日々。
高所恐怖症ゆえ、最初憧れたはずの7階の高さに慣れず、 ベランダに出ることはおろか、ベランダに面している部屋に入るのさえ怖い。
玄関を出れば、7階の高さの下に広がる淵が、 おいでおいでと手招きをしているような気がする――。
この慣れない生活に気疲れし、「おうちに帰りたい」と言って泣きました。

最初の2日3日は、このキャンプのような生活が楽しかったのです。 ないものをどうやってあるもので補おうかと思い巡らすのが楽しかった。
「ここには何もないけれど、少なくとも屋根と壁だけはある」と、 雨から身を守れる幸せに感謝していました。
片付け物は、片付けても片付けてもありましたが、うさぎは精力的に立ち働きました。
「うさぎって、実は働き者だったんだね」と、きりんに言われたほどです。

だけど、一週間経って、 ようやく必要なものが揃いはじめ、荷物も片付き始めた頃になって、 どっと疲れが出てきたのです。 とめどもなく降り続く雨と、どんよりとした厚い雲に覆われた空は、 うさぎから元気を奪い取っていくようでした。
泣き続けるうさぎに、きりんは困り果て、 「こんなに幸せなのに、泣くなよ。泣くなよぉ‥」と言ってうさぎを抱きしめながら、 自分まで泣きそうな顔になりました。

◆◆◆

「おうちに帰りたい」といって泣いた翌日、一週間降り続いた雨がようやく止みました。
一週間結婚休暇を取って会社を休んでいたきりんは、
「カギはかけなくちゃいけないよ、ガスの元栓は必ず締めること‥」などと、 それはそれはこと細かな注意を言い置いて、会社に出かけていきました。

きりんが出かけてしまうと、そのガランとした部屋にうさぎは一瞬戸惑いましたが、 ぼんやりしているヒマはありませんでした。

「まず洗濯物を干さなくちゃ!」

それがうさぎが最初に考えたことでした。 一週間降り続いた雨のせいで、生乾きの洗濯物が山のよう。 これを外の陽に当てなくてはなりません。

うさぎは勇気を奮い起こして、ベランダに出ました。 欄干の向こうには深い淵が広がっていて、血がひいていくのがわかりました。
だけど、何にしても洗濯物を干さなくてはなりません。 うさぎは洗濯物を竿に干しては部屋に戻り、洗濯物を抱えてきてはまた干しました。

そうこうしているうち、見る見る間に7階の高さに慣れてきました。
洗濯物を全部干し終わる頃には、恐怖感がすっかり消えていました。
一体今まで何を怖がっていたのでしょう。
うさぎは欄干に両手を乗せ、ベランダの外に向かって立ちました。 そして、そっと欄干にもたれかかってもみました。 欄干はうさぎがもたれかかっても、ビクともしませんでした。

うさぎは眼下に広がる森を見下ろしました。
なんてきれいな緑でしょう。 まだ紅葉は始まっておらず、うっそうとした葉が木々を彩っています。 枝の合い間から、鳥のさえずりが聞こえます。 木々の向こうには緑の丘があって、そのてっぺんに学校が建っています。

「そうか、これがわたしの新しい日常なんだわ」

うさぎはそう思いました。
昨日はいったいどうして泣いたりなんかしたのでしょう。 「おうちに帰りたい」だなんて。
うさぎはオズの国に迷い込んだドロシーではないのです。
ここがわたしの家なのです。
ここより他に、帰るところなんかないのです。

新しい家で、洗濯ものを干して、料理を作って、掃除をして。
夜になれば、愛する人が側にいて。
うさぎは新しい日常を、今日この日から始めたのでした。

(第一部 おわり)