2003年10月19日 発表会の風景(4) 自分で決断を下すとき

先日の発表会で、皆が走り回っている中、ひとりだけ、 ロビーのソファで悠然とタバコをふかしているお母さんがいました。 この教室で唯一の男の子のお母さんです。

「あら、彼女ってタバコを吸う人だったんだ」って、うさぎは今年初めて知りました。 昨年までは彼女も一緒に走り回っていたものです。 きっと悠長にタバコなんか吸っているヒマはなかったのでしょう。

そして、こんなに険しい顔をしている彼女を今年初めて見た。 どんなに忙しくても、いつも優しく穏やかな顔をしている人だなあと思っていたのに。 眉間のシワがこんなに深いことに、彼女は自分で気付いているでしょうか。

今年の彼女は確かにヒマを持て余していました。 なぜって、彼女の息子は今回、1曲しか踊らないから。 だからそれほど忙しくはないのでしょう。

彼女の息子・翔くんはネネより一つ年上の中学3年生です。 まだ小学生のある日、体験レッスンにやってきて以来、 それほどやる気はなさそうなのに、それでもよく通ってくるようになりました。

お母さんは大のバレエファン。 息子を第二の熊川哲也にしたくて、バレエ教室に通うよう説得したのですって。 優しい翔くんは、「バレエなんて、オンナみたい。辞めるやめる」といい続けつつも、 お母さんの期待を裏切りたくなかったのでしょう。 なんとなく休みがちではありましたが、それでもずっとバレエを続けてきました。

ところがそのうち、バレエの面白さが分かってきたのか、 中学に入った頃から、急にやる気を出しました。 コンクールにも何度か出たし、東京のバレエ教室のボーイズクラスにも掛け持ちで通いだしました。

もともと甘い顔立ちにスリムな体型。 ショービジネスにはもってこいの外見です。
「でも背がね。あたしより小さいんだもん」なんてネネに言われていたのも1年半前まで。 ここ一年で急に伸び、いつの間にやらネネを10センチも越す170センチ以上。 お母さんはしばしばレッスンを見にきては、穏やかな優しい顔で翔くんを見守っていました。

子供の頃、もうちょっと元気があってもいいかな、と思えたおとなしい踊り方は、 中学に入ってから、王子さまの気品さえ漂わせるようになってきました。 お母さんは翔くんにいい刺激を与えたくて、何万円もするチケットをポンと買っては、 よく公演に連れ出していました。
「でも翔は、"見ると落ち込むから見ない"って言うのよ」なんてこぼしていましたが、
「プロのダンサーを見て落ち込む、ってことは、やる気がある証拠よね」 と、よく皆で話したものです。

けれど。ここ半年くらい、翔くんはバレエのレッスンを休みがちになりました。 小さい頃、お母さんにせっつかれて通ってきていた頃だって、まだ来ていた。 今は、一月に一度か二度、それも遅い時間にしか来ない。

5月に発表会の振り付けに入りましたが、それでも来ない。 ボーイズクラスもやめてしまったようです。

「まあしょうがないわよね、今年は中三だもんね。きっと勉強でもしてるんでしょ」 と思うことにしましたが、
「違うよ。今日も放課後学校で何となく遊んでたもん」とネネ。 「こっちは委員会のあと、走って学校から帰ってくるのに。 あれは最初からバレエに来る気がないんだよ」ときっぱり。 どうやら、翔くんはバレエへの態度を決めかねているようです。

優しくて気さくな翔くんは、女の子のお母さんたちにとってもアイドル。 うさぎも翔くんが好きです。可愛くて可愛くてしょうがない。 だから顔を見ればつい、「もっとレッスンにおいでよ」と言いそうになります。 だけどそんなことを言うのはお母さんだけで充分だろうと思うので、 なるべく顔をあわせないようにしてみたりして。 ‥といいつつ、可愛いのでつい構いたくもなる。

お母さんは、翔くんがバレエに熱心でなくなったことにとても傷ついている様子です。 わざわざ翔くんの前で、 「ネネちゃんのお父さんは偉いわ。 お仕事の忙しい合い間を縫ってちゃんとレッスンを受けてらっしゃって」 と、聞こえよがしに言ってみたりする。もともとそんなことを言う人ではないのに。
そっぽを向いて聞かないフリをしている翔くん。 お母さんも翔くんも、二人して傷ついているのが分かる。

発表会の当日、「これどうするの?」と訊きにきた翔くんの肩に、 きりんとお揃いの赤いスカーフを縫い付けてあげました。
でも、途中までやってしまって反省。たいした仕事ではないのだけれど、 わざわざお母さんの仕事をとることはなかった。 お母さんにとって、これが最後の翔くんの発表会かもしれないのに。

翔くんのたった一つの出番は、開演直後にすぐ終わってしまいました。 きりんと一緒の舞台です。 翔くんは赤いスカーフ、きりんは青いスカーフ。 一緒に並んで対になって踊るシーンがありました。

うさぎ、あんまり翔くんが上手なんでびっくりしちゃった。 何年か前は、きりんの方が上手かしら、って思っていた時期もあったのに。 今はもう、比べ物にならないくらい、翔くんのほうが上手。 半年以上もろくにレッスンに来ていないのに、それでも上手。
「ああ、こんなに上手になっていたんだっけ」ってびっくりしました。 「こんなにきれいな身のこなしだっけ」と。

「あ、翔くんって、やっぱりバレエが好きなんだ」とうさぎは思いました。 バレエのレッスンはとても厳しいから、 「お母さんのため」だけでこんなに上手くなれるわけがない。 バレエに向かない子はみな、続いてせいぜい2、3年。 ろくに何もできないうちに、辞めてしまいます。 自分が好きでなかったらこんなにフワッと跳ぶことはできない。 このきれいな足さばきは、一見大して難しそうには見えないけれど、 一朝一夕には身に付かないことを、うさぎは知っています。

「ああ、翔くんがバレエを続けてくれるといいなあ」と、うさぎは心底思いました。 来年も再来年も、翔くんが上手くなっていくところを見てみたい。

たぶん、翔くんのお母さんは、うさぎと同じ気持ちを何倍も強く持っているでしょう。 お母さんは、翔くんがバレエを踊っている姿を、なるべく長く見ていたいのに違いない。 将来ダンサーとして食べていかれるかどうかはさておいても。
翔くんが小さい頃には「これが最後の発表会かも」って毎年のように言っていたお母さん。 彼が一時やる気を見せたとき、ちょっと期待しちゃったのかもしれない。 「もしかしたらずっとこの姿を見ていられるかも」って。

なのに、どうしてなの?
どうしてレッスンに行かなくなっちゃったの――?

「今年の発表会はつまらないわ」と溜息まじりに漏らすお母さん。
「今年は受験だからしょうがないよね。来年はもっと踊るんだよね」 ときりんが言うと、翔くんは、
「そうですね。来年はもっと踊ります」
だけど、それを聞いてもお母さんは喜ばない。淡々と、
「あら、発表会が終わったら辞めるんじゃなかったの。この間はそう言ってたじゃないの」

二度と期待させないで。
二度と落胆したくないから。

それでも翔くんがバレエを続ける限り、落胆は続くのです。 だからお母さんは、

いっそのこと、辞めるなら早く辞めて欲しい

と、気持ちのどこかでそう思っているかもしれません。 自分の期待に、早く"ケリ"をつけてしまいたいから。 お母さんの胸に渦巻く葛藤が、うさぎには分かります。

どうして分かるのかって――?

なぜってそれは、うさぎも母親だから。

◆◆◆

翔くんのことを気にかけているのは、翔くんのお母さんやうさぎだけではありません。 みんな翔くんのことが好き。いつも気にかけています。 だいたい、女の子ばかりのバレエの世界では、男の子だというだけで特別な存在です。
「ほら、あの子はどうした? 男の子が一人いたろう? 今年は出るのかい?」 発表会というと、皆は口々にそう尋ねます。

バレエコンクールの審査員だって、男の子に対するコメントは、 「がんばってください」「期待しています」など、激励の嵐です。 たとえ点数は低かったとしても。 審査員に辛口のコメントしかもらえない女の子を持つ母親としては、 「男の子はいいわね」とやっかみたくもなりますが、 周囲の期待は同時にプレッシャー。 "ダメモト"で済む女の子とは違い、 男の子がバレエを続けることは、やっぱり大変なのです。

お母さん、審査員、見知らぬ観客‥。 うさぎは翔くんをとりまくプレッシャーの一部になりたくありません。 だから激励の言葉もかけられない。 うさぎだって、翔くんにはバレエを続けてほしい。 でも、それを翔くんに伝えてはならないと思うのです。

たぶん子供には、完全に自分の手で決定を下さなくちゃならないときというのがあるのです。 たとえそれがどんな決定であれ、"自分で決定を下す"こと自体に意味のある時期が。 バレエを続けるにせよ、やめるにせよ、 翔くんはきっと、その結論を自分で出さないと大人になれない。

お母さんを喜ばせたくてバレエを習いはじめ、 そのうち自分からバレエがやりたくなり、 審査員からは激励の言葉をかけられ――。 翔くんのバレエ生活は一見、順風満帆に見えます。皆の期待と、自分の楽しさと、一石二鳥。

でも、一石二鳥だからこそ、追い風だからこそ、きっと分からなくなるのです。 自分の意思で踊っているのか、それとも周囲の期待の手のうちで踊らされてるだけなのか。

一度、期待を断ち切り、完全に辞めてしまったらどうだろう。
そしたら、自分がバレエを本当に好きなのかどうか、見えてくるかも?

傍目八目で、そう思いもします。 だけど、そういうアドバイスすら、周囲の大人は口にできない。してはならない。 辞めることも、進むことも、全部翔くんが自分で決めなくては意味がないから。

自分に何か彼の後押しになるようなことができるだなんて、考えちゃいけない。 周囲の大人にできるのは、翔くんが何らかの決断を下すその瞬間まで、 ただ黙って"待つ"ことだけです。 どんなにじれったかろうとも。

本当は。 今の翔くんにとって大事なのは、バレエを続けるか、辞めるかどうかじゃない。 将来ダンサーになれるかどうかの見極めなんて、関係ない。 今の彼にとって一番大事なのは、誰にも干渉されずに、 自分で進むべき方向を決めることです。

どうしてそんなことが分かるのかって――?

それは、うさぎもかつて子供だったことがあるからです。

発表会の風景 おわり