2004年6月14日 冬のソナタ

あじさい

4月の再放送からずっと見てきた韓国ドラマ「冬のソナタ」、 全20話のうち、半分が終わりました。

この人気ドラマは、ミニョンという男性とユジンという女性のラブストーリーです。 それぞれにチェリンという彼女、サンヒョクという婚約者がいて、 三角関係(四角関係?)となっています。 ミニョンとユジンという主人公二人のラブストーリーという見地から見れば、 チェリンとサンヒョクは恋の障壁以外の何者でもありません。 本当なら、このドラマは主人公の二人に思い入れて見るものなのでしょう。

ところが、うさぎはどうも、主人公のユジンに自分を重ね合わせて見ることができません。 うさぎの隣で一緒に見ているきりんは、ひたすらかっこいい主人公のミニョンに 都合よく自分を重ね合わせて見ているようですが、 うさぎは美しいユジンの立場で喜んだり悲しんだりすることがどうしてもできない。 ふと気づけば、元カレ・元彼女のほうに肩入れし、感情移入している自分がいます。

特に、どんな仕打ちをされてもただひたすらにユジンを追いかけ 彼女を自分のもとに繋ぎとめようとして必死のサンヒョクが、 もう可哀想で可哀想で、涙が出ます。 どうしてこのドラマは「可哀想なサンヒョク」という題名じゃあないんだろうかと思うくらい。 うさぎの中では、このドラマは彼が主役です。

また、何かにつけてユジンを落としいれようとするミニョンの元彼女、 イジワル女のチェリンにさえ、自分を重ねます。

どうしてうさぎはミニョンではなくサンヒョク、 ユジンではなくチェリンの気持ちになるのでしょう。

もしかしたらそれは、恋愛につけ何につけ、 自分はヴィクトリーロードを歩むタイプではないような、 そんな気がしているからではないでしょうか。 本当に欲しいものはどうあがいても、結局自分の手に入らないのではないか。 自分はビンボークジを引かされ、 とんびにあぶらげをさらわれるタイプなのではないか、 そうした不安が心のどこかにあるからではないかという気がします。

別に、過去にひどい失恋をしたとか、 何か特別不幸な目にあったとかいう経験があるわけではないのですけれどね、 何に対してもいつも半分片思いのような、投げかけたボールは半分しか回収できていないような、 そんな気が、確かにいつもどこかでしている。 自分の努力は裏目に出やすく、 そもそも自分の人生は、完全なる栄冠を手に入れられないようにできているのではないか、 というような諦めもどこかにあります。 「冬のソナタ」はそうした自分の中のコンプレックスを刺激します。

美しい顔立ち、ちょっとしたしぐさ、口をついて出るセリフ、その悩みや怒りさえもが魅力となって 互いの心を掴んでゆくミニョンとユジン。
やることなすこと全てが裏目に出て、どんどん自分の評価を落としてゆくチェリンとサンヒョク。 自分にはどっちの展開がありえそうかと考えると、圧倒的に後者です。

彼らのすることが正しいか間違っているか、そんなことはどうでもいい。 全く勝つ見込みのない勝負を戦わざるをえない彼らの姿が切ないのです。