2004年8月20日 文字とお金と人生と(その3) マイ哲学のススメ

無敵の勝利者

「今興味のあることは何ですか」と尋ねられたとき、 ここ10年ほど「哲学です」って答えることにしています。

――あっ、今あなたが、ささーーーっと引くのが見えたような気がする‥。

確かにね、「哲学」って聞くと、カントとかキルケゴールとかニーチェとかを思い出しちゃって、 いかにも難しそうで面倒くさそうで、引いちゃう気持ちはわたしにも、よーく分かります。

でも実を言うと、わたしの興味はカントともニーチェとも全然関係がありません。 ただわたしは「自分なりの哲学を確立したいなあ」と思っているだけなのです。
‥って、ああまた「哲学」という言葉を使ってしまったわ。 どうもこの言葉はイメージが硬くて誤解を招きがちだなあ。

わたしがイメージしている「哲学」とは、「価値観」とか「ライフスタイル」に近いような感じです。 自分の行動の指標となるようなもの、どっちへ進もうかと迷ったとき、 進むべき道を決めるよすがとなるようなもののこと。 「人はどうあるべきか」なんていう人類普遍の真理を追い求めているわけでは全然なくって、 ただ「自分はどうすべきか」が知りたいだけ。 いわば「my哲学」であります。

そして、そういう「my哲学」は 偉い哲学者の本をいくら読んでも得られない、と思っています。 だから全然読みません。 ‥いや、読めばもしかしたらほんのちょっとは参考になるかもしれない?? ‥或いはね。 でも、敢えて読もうとまでは思わない。 だってわたしは偉い哲学者ではないんですもの。

マイ哲学は、誰かに教えてもらうのではなく、 自分の手で、時間をかけてゆっくりと作っていくしかないと思っています。 壁にぶち当たるたびに、いろいろ悩んだり考えたりしながら。 とはいえ、悩むチャンスはそうそう多くない。 だから、自分以外の誰かが何かの決断を下すのを目の当たりにするときにも考えます。
「自分ならどうするかな」って。 そうやって決断のチャンスを増やし、マイ哲学確立に向けて、 ちょっぴりスピードアップを図ってみたりして。 だってさもないと、マイ哲学が見えてきた頃には棺おけ入りしてるかもしれないもんね!

自分なりの行動の指針が必要なのだと気づいたのは、子供を生んだことがきっかけです。 子供を生むまでは、そんなこと考えもしなかった。 自覚的に行動の指針を持たなくとも、わたしは万事うまくやっているつもりでした。

実際、うまくやっていたんです。 10代の終わりから20代の前半はわたしにとってバラ色の時代で、 それは自分自身の行動が適切であるせいだと信じていました。 努力をすれば、その努力なりのものが得られることを知っていたし、 得られなかったものを諦めるすべも知っていた。 人に誠実であれば、いつかはその誠実さが帰ってくることを知っていたし、 その誠実さを回収するまでの忍耐の仕方も知っていた。 「こういうときはこうすればいい」というノウハウを知っていて、 それを実行しさえすれば、少々の波乱はあったにしても、深く傷ついたり落ち込んだりすることもなく、 精神のバランスを保ったまま、うまく切り抜けられました。

だけど、最初の子供が1歳半になる頃から、人生はそんなに簡単なものではないと知りました。 幼い子供のいる生活は、 どんなに育児書や育児雑誌を読み込んで「こういうときにはこうすべき」というノウハウを覚えても、 そこに書かれていない事態が毎日のように起こる日々でした。 「こうすれば子供は泣き止むはず」と誰かに聞いてその通りに実行しても、うちの子に限って泣き止まない。 マニュアルの通用しない生活、何が適切といえるのか、まったく分からない日々でした。

またそれ以前に、「こうすればこの子は泣き止む」と分かっていてさえ、それをしたくない自分がいることもありました。 たとえば「ここでアメ玉をしゃぶらせればこの子は泣き止む」と分かっていても、それをしたくない自分がいました。 いくら「褒める育児が子供を伸ばす」と知っていても、自分が褒めたいと思わないときにまで褒めたくない自分がいました。 それは「いまここで切り抜けても、あとあと苦労するから」といったノウハウの延長線上の問題ではなく、 もっとずっと生理的で感覚的なものでした。 「そうするのはなんとなく気持ちが悪い」とか「どうしてもそれは違うような気がする」といったような。

結局のところ、育児を通してわたしが知ったことは、マニュアルとかノウハウといったものの無力さでした。 確かにノウハウは時としてとても便利で、ツボにうまくはまったときなど、手を叩いて大喜びできました。 でも、殊うちの子と自分に関しては、全く無力なこともありました。 予想外の反応を返すわが子、予想外の感情が湧きあがる自分の前には、 外から仕入れたマニュアルなど、異星人のために書かれた処方箋のようなものでした。

悩んで悩んで、泣いて泣いて、3歳児相手に怒鳴って叫んで大騒ぎして。 そうやっているうちにある日のこと、わたしは気づきました。 結局のところ、ヘタなノウハウに従うよりは、 自分なり、わが子なりのやり方に沿い、適宜解決していく (もしくは無理に解決しようとせずに放置する)ほうがよっぽどうまくいく、ということに。 そうやってお互いにとって納得のいく付き合い方を模索していけばいいのだ、と。

それはまさに、ヘレンケラーが「水!」と叫んだ瞬間と同じでした。 ある言葉に接した瞬間、それまで混沌としていたものが、一気につながり始めたのです。 それは「認める」という言葉でした。 その言葉を糸口に、こんがらがった糸がとつぜんほどけ始め、 「ああ、自分にはなんらかの哲学が必要なのだ」と気づいたのです。 相手を認めること、自分を認めること、自分を軸にしてモノを見ること考えること。 自分の手で一つ一つ選び取り、選択を積み上げていくこと。 それこそが人生であり、 どう積み上げようかと考える指針を哲学と呼ぶのだ、と。

だからねえ、今から一つ決めていることがあるんです。 たとえ誰かにわが子をそしられて、「親の育て方が悪い」と言われたとしても、絶対反省なんかするもんか、と。 方便として謝ることぐらいはしてもいい。だけど絶対に後悔なんかするもんか。 正しいとか間違ってるとか、そんなことはともかく、 わたしはこういう育て方しかできないのだから。

子供とは関係のない部分でもそれは同じです。 「おまえの生き方は間違っている」と誰に言われたとしても、絶対に反省なんかするもんか。 一つ一つの選択を顧みて「ここでソンをしたな」と舌を出すことはあるかもしれない。 だけど絶対に自分を否定なんかするもんか。 正しいとか間違ってるとか、そんなことはどうでもいい。 わたしにはこういう生き方しかできないのだから。

逆に言えば、そのくらいの気概を持って、人生に臨みたいということです。 そういう図太い生きかたをするためには、マイ哲学が必要なのです。 ノウハウじゃあダメなのです。 到達点が決まっているときは、ノウハウも便利でしょう。 短距離走ならマニュアルも大いに結構。 だけどマニュアルだけじゃあ、ノウハウだけじゃあダメなのです。 人生は長く、どんなことがあるか分からないから。

そんなとき、マニュアルをとっくり返しひっくり返ししても答えが探して答えが見つからなかったとき、 その答えじゃ気に入らなかったとき。そんなときこそ、マイ哲学の出番です。 どっこいしょっと腰を据え、さあどうするかなと顎にこぶしをあてて考える。 そうやって、自分で答えを作る際の指針がマイ哲学。答えを作っていくこと自体、マイ哲学。 時間はかかるものの、応用が利き、全く新しい突発的状況に強いのがマイ哲学です。

‥で、そういうマイ哲学が、文字やお金とどういう関係があるのかって――?

実は先日指文字の存在を知ったとき、 人の行動を決定する上での表意文字が「ノウハウ」だとすると、 表音文字は「マイ哲学」ということになるなあ、と思いました。

ノウハウは、それを行使する人を選ばず効力を持つ可能性がある、という意味で普遍的です。 それは、文化の壁を越えて通じる可能性のある表意文字に似ている。

マイ哲学は自分の中だけでの法則性ですから、通用する範囲は限定されています。 だけど、その法則性の通用する範囲においては、抽象的なだけに汎用的で、 解決すべき局面を選ばないところが、表音文字に似ているな、と。

その類似性を思ったとき、わたしは確信したのです。 やっぱりマイ哲学は大事なんだわ、って。 これまで上手く説明できなかった。 今も充分に上手く説明はできない。 それでも敢えて説明しようとするならば、 マイ哲学は、行動選択の基準を抽象化したものであり、 抽象化はイコール汎用化に繋がるのだから、やはりなくてはならないのではないか、というわけです。 ノウハウは便利だけれど、穴がある。 それはトンパ文字で「きりん」と書けないのと同じです。 具象にとらわれているうちは、どうしたって制限を受ける。 応用が利きにくいのです。

出版業界では、「ノウハウ」とか「マニュアル」「裏ワザ」「技術」といった言葉を題名に含めるだけで、 本の売れ行きが違うといいます。 ネットの世界も同じで、「マニュアル」や「ノウハウ」を標榜するのは、ヤフー攻略の正攻法です。 その言葉には「役に立つ」というイメージがあり、 勉強家の人々は、ものごとをうまく円滑に運ぶために、様々なノウハウ習得に余念がありません。

だけど、こんなに勉強しているのに、努力してるのに、 いまいちうまくいかない、という人も多いんじゃないかな。 たとえば、 「底値買いも実行してるし、給料は袋分けしてるし、節水ケレップもつけているのになぜか いまいちお金がたまらない」といった話をよく聞きます。

たぶんそれは、家計に関するマイ哲学がないからじゃないかと思います。 いろいろ勉強して努力もしているんだけど、それらは全部外から仕入れた情報の受け売りで、 自分がどうしたいか、自分はどうすべきか、という視点が欠けている。 だからノウハウの範囲からはみ出た部分に関しては野放図になりがちだし、 受け売りノウハウを実行していても楽しくないので、 短期間で効果が実感できなかったりすると、不満が溜まって長続きしにくい。

その点、マイ哲学にのっとって自分で編み出した方法は、たいてい地味で、 ノウハウと呼べるほどたいしたものでもなく、 即効性もなければベストな方法でもなかったりするけれど、 ライフスタイルに即しているので、効果が小さくても「まあしょうがないか」と思えるし、 自分に合った方法だから無理がなくて何年でも続けやすい。

だからこそ、このノウハウ全盛の時代にあっても、マイ哲学が必要なんじゃあないかと思うわけです。

ただ、その哲学は、日々の生活に密着したものでありたいと思っています。 家計の哲学、育児の哲学、住まいの哲学、趣味の哲学などなど。 哲学だけが一人歩きして、禅問答のようになってしまったらつまらない。 たとえばマネーゲームのように。

お金というのは人間の偉大なる発明で、 有形のものにかかわらず、労働や情報といった形のないものにまでも価値がつけられるというのは、 すばらしいことだと思います。 でもその抽象的な「価値」というものは、あくまでも具象的な需要と供給に則していてほしい。 実際の需要供給とは関係のないところで起こる仕手戦による価格の乱高下や、 マネーゲームは、本当の価値というのが一体何なのか、分からなくしてしまいます。

哲学もそれと同じです。 抽象的な言葉の遊びに走ってはつまらない。 難しすぎては意味がない。 抽象的であることの自由さを享受しつつ、 具象的な問題の解決に使われてこその哲学であると思うのです。

おわり

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