クルド語

「トルコのもう一つの顔」 小島剛一

 今朝のスカイプレッスンは、フィリピン人の先生に英語でお願いしました。フィリピン人、どうしてみんなあんなに英語が上手なのかと思ったら、公立でも小学校1年生から授業はすべて英語。学校で英語以外の言語を話すのは禁止で、規則を破ると罰を受けるそうです。

 驚いて「それについてあなたはどう思う?」と尋ねたら、「いいと思う。そのくらいしなかったら英語は身につかないから」という意見でした。

 でもわたしはちょっと複雑でした。私立の語学学校なら、それもいいかもしれない。でも公立の小中学校となると話は別。なにか釈然としませんでした。

 もう一ヶ月ほど前になりますが、「トルコのもう一つの顔」およびその続編「漂流するトルコ」を読みました。ブログに感想を書こうと思ったのだけれど、あまりにも内容が衝撃的すぎて言葉を失い、考えが纏まらなかった。不完全でもいいから、何か言葉に残しておこうと思いつつ、ズルズルと一ヶ月が過ぎてしまいました。

 トルコの言語政策に関連するノンフィクションです。現在は緩和されているようですが、1980年代のトルコは厳しい言語統制を敷いていて、公の場でトルコ語以外の言葉を話すと逮捕されたそうです。

 といっても、たとえば英語とか日本語などは大丈夫。政府が禁じたのは事実上、国内の現地語。たとえばクルド語です。要は、この言語統制は少数民族の弾圧だった。

 そんな情勢の中、この本の著者・小島剛一氏はトルコ内の言語調査に乗り出します。政治的意図はなく、純粋に学術的な興味から、トルコの様々な地方をくまなく歩き、どこでどんな言葉が話されているか、克明な調査を行った。

 しかしそれは、当時のトルコ軍事政権の政策と真っ向から対立するものでした。

「トルコ語以外の言葉はトルコ国内に存在しない」というのが建国以来のトルコ政府の公式見解

トルコのもう一つの顔 p.26

だったから。

 氏の研究はトルコ政府にとって目障りなものだった。

 そしてクルド人活動家にとっても。

 なぜならば、氏はクルド人の活動家が主張するところの「クルド語」が一枚岩ではなく、相互理解がまったく不可能なほどに異なった「方言と呼ぶにはあまりに遠すぎる」言語の集合であることを突き止めたからです。

 この本は彼の行ったフィールドワークの様子、さまざまな少数言語話者との交流および、妨害行為や身柄拘束、強制国外退去などの様子を綴ったものです。

 実はトルコは多民族国家。クルド語のほかにも様々な少数言語が、まるでモザイクのようにひしめき合っているのですね。

 著者は、自分が収集した少数言語をトルコ国外に「持ち出す」ため、非常なる努力をします。貴重なデータをトルコ政府に没収されぬよう、収集した言語は可能な限り頭に詰め込み、さもなければ独自に編み出した暗号で記載して持ち帰る。

 わたしは言語学がこんなに危険な学問だなんて、それまで考えたこともありませんでした。必要とあれば紛争地帯に足を踏み入れるフィールドワークの危険性以前に、そもそもその調査をすること自体、敵視される場合があるだなんて。

 ちなみにこうした言語統制が始まったのはトルコ共和国の時代からで、

オスマン・トルコ帝国の場合、特定の言語を被支配民族に押し付けようという意図が、帝国崩壊にいたるまでついぞなかったのである。

トルコのもう一つの顔 p.22

というのは意外でした。

 「帝国」というと何か非常に厳しい強権を思い浮かべ、「共和国」というとちょっと民主的? そうした言葉のイメージに騙されてはいけないなと思いました。

 右か左か、体制側かクルド派か、という二元論、これも違う。そういう二元論的な発想で読んでいると、だんだん自分の立ち位置が分からなくなってくる。

 著者の立ち位置はただひとつ、真実の追求であり、決して政治的に誰かと組しようとはしない。もしこれが自分だったら、恐怖のあまり、自分を守ってくれそうな人におもねってしまいそう。

 でも氏は決してそうしない。常に危険に対して神経を研ぎ澄ませ、まるで綱渡りのような駆け引きで自分の身を守るのです。読んでいるこっちまでハラハラのし通しでした。

 この本で一番印象的だったのは、氏の驚くべきコミュニケーション能力です。その言語習得力もさることながら、口で喋る言葉にとどまらないコミュ力が非常に高い。

 一歩間違えば、暗殺されかねない状況の中、今なお命があるのは、危険を察知し、それを水際で回避する巧みなコミュニケーションスキルあってこそでしょう。

 そもそも、母語を話すことが身の危険に直結する人々から、その言語を引き出せるところがすごい。非凡な言語習得力と歌のスキルを活かし、相手からすれば「素性も知れない東洋人」である氏は人々の完全な信用を勝ち取るのです。

 ・・・うーん、すごい。ただただ、すごい。ひたすら圧倒されるばかりでした。

 フィリピンの先生に「公立の小中学校で英語以外を話すと罰せられる」と聞いたとき、ものすごい違和感を感じたのは、この本を読んでいたからかもしれません。

 もしこの本を読んでいなかったら、「ザッツ・グッドアイデア」なんて言ってたかもしれない。

 フィリピンでは、今年から現地語(セブならセブアーノ語)の教育も開始されるそうです。それを聞いて、ちょっぴり安心しました。
 

トルコで見た虹

タイトルとURLをコピーしました