多言語

違うから面白い

 外国語を学ぶ醍醐味の一つは、認識の違いを学べることです。

 日本語では意識しないことを、意識せざるえない。それが外国語の難しさでもあり、面白さでもあります。

三種類の「よく」

 実はいまロシア語検定の過去問の和文露訳をやっているのですが、「よく」という日本語を、三通りに訳し分けなくてはなりません。

  1. 「アントンはよくテニスをする」の「よく」はчасто
  2. 「太郎は英語をよく理解している」の「よく」はхорошо
  3. 「マーシャは日本のことをよく知っている」の「よく」はмного

 「うわー、ロシア語、めんどくさっ!!」って感じですが、よく考えるとこの三つの「よく」はそれぞれ意味が違う。一つ目の「よく」は頻度の高さ、二つ目は質の高さ、三つ目は量の多さを示している。「ロシア語がわざわざ分ける」というより、「日本語がたまたま分けない」のだと思います。

 頻度、質、量という概念自体は日本にもありますが、その程度が高いことをどれも「よく」という同じ言葉を使って済ませてしまうので、通常はその違いを意識しない。

 外国語を学ぶことにより、初めてそういう違いを意識する。それって面白いなあ、と思います。

二種類の「わたしたち」

 インドネシア語には「私たち」にあたる言葉が二つあります。

 一つはkami、もう一つはkitaです。

  1. kamiは、相手を含まない「私たち」
  2. kitaは、相手を含む「私たち」

 これ、言われてみれば、えらい違い。なぜ日本語でも英語でも区別しないのか、不思議なくらい。実際「うちらって〇〇じゃん?」と言われ、「その『うちら』には私も入るのか?」が分からず、反応に困った経験があります。

 まあこういうことがしょっちゅう起こるわけではないので、区別がなくてもそれほど支障はありませんが、インドネシア語で「私たち」と言うときは常に、それが相手を含むかどうか意識するわけです。

 「あなた(がた)」に対する「わたしたち」なのか、「あなた(がた)もわたし(たち)も」なのか。

 インドネシア語のみならず、同じ語族に属するビサヤ語やタガログ語にも同様の区別があるようです。こういう言語を学ぶと、「わたしたち」という一つの単語に丸めこんでいると気づかない二つの事象の違いを意識することになります。日本語で話しているときでも、「あ、今自分が言った『わたしたち』はどっちの意味かな」とふと考えたりします。

オスとメスを区別

 多くの言語では、オスメスで牛や鶏の呼び名を変えます。

 例えば英語なら、cow(牝牛)とbull(雄牛)、hen(雌鶏)とrooster(雄鶏)。

 同じ英語でも、犬や猫は通常オスメスを区別せず、馬や羊も同様です。

 これは偶然ではなく、「オスとメスで用途が大きく異なる場合は分ける」傾向があるようです。猫はネズミを取りさえすればオスだろうがメスだろうが関係ないけれど、牛が乳を出すか出さないか、鶏が卵を産むか産まないかはえらい違い。だからオスメスを区別する。

 その証拠に、牛や鶏も肉になってしまうとオスメス関係なく、beef(牛肉)、chicken(鶏肉)と呼ばれます。今食べてるステーキがオスかメスか、気にする人はいませんものね。

 日本語にも牝牛、雄牛、雌鶏、雄鶏という言葉があり、区別しようと思えば区別できます。でも酪農の習慣が浅いからか、その違いを通常は意識しません。子供は牛を見れば「あ、牛だ!」と叫び、「あ! 牝牛だ!」とは叫ばないでしょう。

 英語圏の子供は牛を見かけると、乳房の有無を素早く確かめ、”Look! there’s a cow!”と叫ぶのでしょうか。えらいことです。

なぜか気になる年の順

 日本語にある区別が、学習中の外国語にはない場合もあります。

 たとえば兄弟。日本語で兄弟姉妹の話をするときは、自分よりも年上か年下かを意識し、兄・姉と弟・妹をはっきり区別します。年齢の序列をぼかしたい(知らない)ときは「兄弟」などと表現することもできなくはありませんが、一般的ではありませんね。「わたしには兄弟がいます」などと言おうものなら、「この人、家族構成を他人に知られたくない事情でもあるのか?」と勘ぐられかねない。 

 その習慣のせいでしょうか。英語で言うときも、「I have a younger sister」と、わざわざyoungerやelderをついつけてしまう。そして相手に「I have a brother」と言われると、「Is he older than you?(お兄さんですか、弟さんですか?」と尋ねたくなる。どっちが年上かはっきりさせないことには、なんとなく落ち着かない。

 似た顔の二人連れに街で出くわし、何かの理由で興味を惹かれたとします。それが子どもなら、背の高さで「こっちがお兄ちゃんだな」と、我々は無意識に素早くジャッジします。大人の場合でも、白髪の数やシワの数などで、どちらが年上かを見極めようとする。

 どちらが兄で弟か、知ってどうなるものでもないし、知らないと困るわけでもない。でも知らないとなぜだか落ち着かない。それはおそらく我々が「兄」と「弟」を別のものとして認識していて、自分が見たものを「兄」と「弟」という言葉を使って整理しようとするからだと思います。

言葉の範囲の違いは認識の違い

 同じものは同じ名前で呼び、違うものは違った名前で呼ぶ。――そういう決まりで言葉は成り立っています。

 ところが、同じ名前で呼んでいると、違ったものでも同じに見えてきます。

 日本語話者にとって、兄と弟は異なるもの。一方、オスだろうがメスだろうが、牛は牛。

 英語話者は逆で、生まれ順がどうあれ、男兄弟は男兄弟。一方、牝牛と雄牛は別のものと認識する。

 認識によって言葉が成り立つ一方で、言葉によって認識自体が左右されもするわけです。

 「気にするところの違い」はそのまんま「認識の違い」。それが外国語の面白いところです。

 面白い部分はそのまま、「難しい部分」でもあるんですけれどね。

 外国語を学んでいると、アタマの中の、いつもは使わない部分を無理やり働かせなくてはならない。そこが外国語の厄介で、でもたまらなく面白いところです。

フリクションのグリップがペタペタして剥がれてきたので、修理。
こちらのブログを参考に、ありあわせの刺繍糸を巻きました。
指あたりが柔らかく、快適です^^。
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