2005年2月7日 ウェブの不自由さ

どんなに好きなことでも、長く続けていくのは、大変だと思う。 それが分かっているから、何か一つの趣味にこだわり続けている人を見ると、それだけで励まされるような気がする。 最近は、趣味へのハマりようをウェブサイトという形で披露する人も増えて、 それを見ているほうは、楽しいことこの上ない。 半ば感心しつつ、半ば呆れつつ、自分には実現できないその趣味の世界を、そのサイトを通して堪能する。

たとえば最近わたしは、食器やキッチン用品に関するある個人サイトにハマっている。 そのサイトは実に壮観である。 食器コレクションはサイトに公開されているだけでも信じられないくらい膨大、 湯呑と急須のセットだけで何十、ハシ置きだけで何百という単位。 さらにその上に日々ヤフオクでいろんなものを落札し、 その膨大な数の食器に盛り付けた凝ったお料理の数々を、写真で公開している。 一体、この家の家計はどうなっているのだろう、と余計な詮索をしつつ、 楽しくて楽しくて、つい、朝に夕に見に行ってしまう。

別にそのサイトを閲覧して、どんな有益情報を得られる、というわけでもない。 ただ、楽しいから、見る。 「食器について少し詳しくなる」という副産物も、オマケ程度についてくる。 サイトの存在意義を言葉にするのは難しいけれど、そのサイトには明らかに意義がある。 自分のサイトもこんな風に楽しんでもらえたらいいな、と思う。

ウェブサイトを閲覧するのは、本当に楽しい。 掛け値なしに、楽しい。 でも、ウェブサイトを運営するのは、必ずしも楽しいことばかりとは限らない。 だから、ウェブサイトを立ち上げる人も多いけれど、ウェブサイトをたたむ人も多い。

ウェブサイトを始めてそろそろ4年、わたし自身はサイトを辞めようと思ったことは一度もないし、 続けることをさほど苦痛に感じたこともない。 でも、ウェブサイト公開をやめようかと思う人の気持ちはとってもよく分かるし、 そういう人を見ると、なんだか知らないけど、必死に慰め、ひきとめてしまう。

実は先日も、そんなことがあった。 余計なお世話とは重々承知しつつ、「これ以上は何も望まないから、続けていって欲しい」と、 やけに気合を入れて力説してしまった。 自分でもバカだなあ、と思う。 わたしなんぞが何を言おうが言うまいが、辞める人は辞めるし、辞めない人は辞めない。 アドバイスなんて、するだけ無駄なのだ。 いや無駄どころか、むしろ狂言回しになったり嫌われたりする可能性があるだけ、ソンである。 実際、今回のアドバイスも「やっぱりやめときゃよかった」と思っている自分がいる。

そういうことが分かっているのになぜ同じ失敗を何度も繰り返し、 アドバイスなんかしてしまうのかというと。 それは、「あ、これは自分だ」と思うからだ。 本当は、誰かへのアドバイスなんかじゃない。 本当は、自分にアドバイスしたいのだ。 だから、自分が聞きたい言葉、自分で信じたい言葉を書き連ねる。

わたしは、自分の肩が痛くなると、きりんの肩を揉む。 きりんの肩を揉んでいるうちに、自分の肩も軽くなってくるような気がする。 自分がしてほしいことを、人にしてあげると、自分が癒される。 誰かに助言するのも、それと同じだ。

話を元に戻そう。 繰り返すようだが、わたし自身はウェブサイトを辞めようと思ったことはない。 でも、辞めたい人の辛さはよく分かる。 ウェブサイトは自由なようで、ちっとも自由ではない。 一番書きたいことに限って、書けない。 それがウェブの世界だ。 それでもなんとか書こうとして、誤解を呼ばないよう言葉を選び、 勇を奮い起こして文章にし、 それでも最後の瞬間に、「やっぱりやめておこう」となってお蔵入りさせる、 わたしにとって、ウェブの世界というのはそういう場である。

もしかしたら、自分のウェブサイトなど持たなければ、 ウェブの世界はもっと自由なのかもしれない。 好きなハンドルネームで思うこと、書きたいことを存分に書き、 もし万が一、それが原因で八方ふさがりになった場合は、ハンドルネームを変えて、 また新たな自分に生まれ変わって発言する。

わたしがウェブサイトを辞めたいと思ったことがないのは、 そういう自由さを味わったことがないからなのかもしれない。 ウェブサイトを始める前は、パソコンの電源の入れ方も知らなかったから、 ウェブサイトなんてものを見たこともなければ、掲示板なんてものはその存在すら知らなかった。 「うさぎ」というハンドルネームしか使ったことがないから、 匿名の自由を満喫したことがない。

自分のホームページというのはまさに「家」であり、 ウェブサイトの管理者というのは、つねに家を背負って歩いているカタツムリのようなものだ。 自分が丹精込めて作ったウェブサイトはかけがえがなく、 一つまかり間違えばそのウェブサイトを捨てなくてはならないと思うと、 それを背負って歩いている間は、滅多なことを言ったりやったりはできない。 ウェブサイトを背負っている限り、ハンドルネームは実名同様に重く、 人間関係もあれば世間体もあり、義理や人情にがんじがらめにもなる。 ここにも実社会同様の縮図があって、 いつの間にか八方美人になって当たり障りのないことしか書けなくなっている自分に気づく。

それでも1年目2年目はよかった。 ウェブサイトを始めた嬉しさで、発展することだけ考えていられた。 次は何をしようかと、ひたすら張り切っていた。 きっとそれは誰しもそうなのだろう、1年目2年目でサイトをたたむというのはあまり聞かない。

でも3年目4年目と、体にのしかかる「家」の重みはどんどん増してくる。 「いっそのこと、この家をたたんで自由になりたい」という気分になるのだろう、 信じられないような大サイトが、ある日突然、閉鎖してしまったりする。 たとえ大サイトにならなくってもそれは同じこと。 みんなきっと、家が重くなりすぎたのだ。

そして、そんな時、わたしも自分の「家」の重さに気づく。 でもこれを「重い」と口に出して言ってしまってよいものか。 取りようによっては、サイトを見に来てくださる方に失礼な感じになる気もして、なかなか口には出しづらい。 だからこそわたしも、誰かへのアドバイスという形で、自分が聞かせて欲しい言葉、 自分の信じたいことを綴るのだろう。

でも、冒頭に書いたように、どんなに好きなことでも、長く続けていくのは、大変なこと。 同じことを続けていれば、時に重たくなるのも当たり前。 だから、重いと感じてもいいのだと思う。 不自由と感じてもいい。 だってホントにある意味、不自由なんだから。

完全に自由な世界なんてあるわけがないし、 背負うものがなければないで、それはそれで寂しく感じるものかもしれない。 一方で自分の「家」を愛しつつ、他方で「たかがウェブサイト」と割り切る。 そうやって今後もウェブサイトを続けていきたい。 たかが3年4年で何かが分かったなんて思っちゃいけない。 何はともあれ10年も続けていけば、きっとそこで何か新しい自由を見つけられるだろう。

ただ、一人で続けるのは寂しいので、「旅は道連れ」というわけで、 一緒に歩んできたみなさんが、今後も一緒に歩んでいってくれると嬉しいなー、と思うわけであります。