英語

80万語突破 みんなで多読

 最近、わたしのブログを読んで「多読ってなんだか楽しそうね。わたしも始めようかな」と言ってくれる人が増えました。とっても嬉しい~♪ ほんとほんと、多読はとっても楽しいので、まだのみなさんも、ぜひ一度試してみてください。

本を共有する楽しさ

 とりわけ嬉しいのは、今年79歳になる母が多読を始めたことです。家がたまたま近かったことから、11月下旬に電通大の多読の会を訪れて以来そろそろ2ヶ月。毎週通い、2時間ほど英語の絵本を読んで帰るのだそうです。多読の会にいくと、まずは「今日はこれだけ読む」と決めた本を机の自分の脇に積み上げ、次から次へと読んでいくんですって。そして全部読み終えて時計を見ると、ちょうど2時間くらいが経過しているのですと。わが母ながら、すごい集中力だーー!!

 下の娘ちゃあも「受験が終わったら、わたしも英語の多読を始める」と言っています。まあ言ってるだけだと思いますが(笑)。受験勉強以外のことなら何でもやってみたい時期なので。でも食事時にわたしが「がまくん」やUsborneのCDをかけていると、一緒に聞いたり絵本を眺めたりしているので、確かに興味はあるのでしょう。ときどき「そうか、英語で〇〇って、××の意味なんだね」なんて言っているところをみると、けっこう真面目に聞いているようです。

 そうやって、娘も絵本を見るし、母にも送るし、友達にも貸したりで、自分だけでなく、何人もの人で活用できるので、多読に関するサイフのヒモがにわかにゆるくなってきました。読むのが自分だけだと思うともったいなくてあまり本を買おうという気にはならないのですが、みんなで活用できるとなったら話は別。ちょっとくらいお金をかけても元がとれるかな?・・・なんて^^;。

 また、自分の好きなものだけでなく、最近意識して「タドキスト(多読ファン)に人気のある本」を選んで読むようにしています。なぜって、人気のある本は、SSSの書評検索やブログなどでいろんな人の感想を読むことができるから。本を読み終えたあと他の人の感想を読むのがまた楽しいんです^^。自分とは違った見方が発見できるから。みんながみんな似たよう~な感想を抱く本もあれば、人によって評価が分かれる本もある。わたしが「つまらない」と思った本が意外と評価が高かったり、その逆だったり。そういうのを見るのも楽しいです。

 本を読むというのはそれ自体は孤独な作業ですが、読書を通じて人と繋がる楽しみ方もあるんですね。

 フランス語を読み始めて気づきましたが、英語多読の世界はとても整備されています。かなり正確な語数表があるし、ブログや書評も読める。多読掲示板では、何語くらい読んだらどんな変化があるのかといった体験談を読むこともできます。自分が得た情報をしまいこまず、みんなの共有財産にしようと思う人たちがたくさんいたからこそ、徐々にここまで整備されてきたのだと思います。

 だからわたしも何か少しお返しをしたいと思い、まだマイナーで正確な語数表ができていないUsborne Young Readingの語数を数えることにしました。自分が読みたいものだけ、それも一冊1500語~3000語程度というささやかなご奉仕です。しかも今のところ自分の多読リストにアップするだけという省エネぶり。でもまあ「気持ち」ってことで。

自分なりの読書体験

 多読の利点はたくさんあり、これまで10万語ごとにいろいろ書いてきましたが、最近、多読の最大の利点は二点に集約されるのではないか、と思うようになりました。一点は次の機会に書くとして、もう一点は、

 始めるレベルを選ばない。ペースを選ばない。本を選ばない。

ということだと思っています。

 全く英語を学んだことも見たこともない場合はどうだかわかりませんが、ほんの僅かでも英語を学んだ経験があれば、そこから読み始めることができる。ペースも自由。1ヶ月以内に100万語読もうが、1年以上かけて読もうが構わない。だから忙しい人でもできるし、目さえ悪くなければ始める年齢も選ばない。

 英語をほんのすこしかじったことがありさえすれば、誰でも自分のペースで始められるわけで、この「間口の広さ」があってこそ、「みんなで多読」が可能なのかなあと思います。

 さらに、テキストが決まっていないのもいいですね。「この本を読みなさい」という押し付けがないから、SFが好きな人はSFを中心に読めばいいし、推理小説が好きな人は推理小説、恋愛モノが好きなら恋愛モノと、自分の好きなジャンルに偏って読むことができる。

 人それぞれ好きな素材を選んで読めるから、100人いたら100通りの多読経験がある。あんまり人と自分を比べてどうこう思わないのは、だからなのかな、と思います。

 けっこうわたしは人と自分を比べて焦ったり、落ち込んだりすることもあるのですが、多読に関してはそういうことがない。「あの人はレベルが高い本を読んでいるのに、わたしは~」とか、「あの人は一日に〇万語読んでいるのに、わたしは~」とか、全然思わない。それは「自分なりの多読経験」があるからかなと思います。

 わたしは、自分が読んできた本の一覧を眺めるのが好きです。ちょくちょく眺めては、一人で喜びに浸っています(笑)。わたしの多読は、たまたま手に入った本を読むことから始まったし、人からたくさんの影響を受けてきました。でもそれでもかき消されない自分の個性ってあるんですねえ。「メジャーな古典はなるべく押さえる」「多読ファンに人気の本はとりあえず踏む」と決めていてさえ、自分の読書履歴を眺めると、やはりどこか偏った読書傾向が現れていて、気恥ずかしい。そして嬉しい^^。

 多読を始める前は、cabという単語を見て、まずタクシーを思い浮かべましたが、最近は、違うんですよ。cabという単語を見て最初に思い浮かぶのは、辻馬車(笑)。そういう偏った自分が嬉しいんです。

まとめ

 多読はレベルを問わず誰にでも始められるという点でとても平等です。

 でもその体験は一律ではなく、人の数だけ違った体験があります。

 そして

  • 人と同じ本を共有する喜び
  • 自分だけの体験を持つ喜び

その両方が味わえます。「人との共有」と「自分なりの体験」は、矛盾するようでいて矛盾しないのです。

 多読は、レベルを問わず、誰にでも始められるという点でとても平等だけれど、一律ではない。いや、一律でないからこそ、平等なのかもしれません。

 とにかくそれが、多読の大きな魅力の一つじゃないかな、と思います。

冬のプラハ
タイトルとURLをコピーしました