アラビア語

アラビア語学校の日常5 先生の匙加減

 学校の授業で一番緊張するのは、会話の授業でマイクを持ち、テキストの会話文を暗唱したり、何かの話題について自分の経験や意見を述べるときです。「皆の前で、マイクで話す」ことに、まず緊張~! そして「何も見ずに話す」ことで更に緊張~。しかもアラビア語ですよ、アラビア語。「衆目の面前で、マイクを持ち、何も見ずに話せ」といわれたら、日本語だっておぼつかなくなるというのに。

 テキストか何かを見ながら話すことと、何も見ずに話すことでは、難易度が格段に違います。そしてその理由は「話す内容を暗記する必要があるから」だけではないんですね。「顔を上げて話す」ことが難しいんです。テキストに顔をうずめ、うつむきながら話しているうちは、テキストが外の世界から自分を守る格好の防具となる。そのテキストを持たないということは、自分を守る防具を持たず、身一つで、皆が自分に注目しているこの現実に立ち向かうということです。だから難しい。だから心細くて、だから暗唱だと分かっていてもついテキストに手が伸びます。

 でも、テキストや覚え書きを開こうとしたとたん、先生の声がピシャリと言い放つ。
「アグリク アル キターブ!」(本を閉じて!)

 …そういわれてしまっては仕方がない。退路を断たれた以上、仕方なく現実に立ち向かい、テキストなしでなんとか自分の発表の番を終えます。

 で、皆は一体この難局をどう乗り切っているのかと、一人一人をつぶさに観察してみたりするわたしなのですが…。ときどき、テキストを開いていても何も言われない人がいる。おや、先生は気づいていないのかな、と思って見ていましたが、どうも違う。どうやら、気づいていながら見て見ぬフリをしているようです。

 こうした先生のお目こぼしに預かるのは、暗唱が苦手な人、その日授業に遅れてきて暗唱する時間が充分にとれなかった人、目立つのがいやで教室の隅っこのほうに席をとっている人などです。つまり、テキストという防具が必要な人。その防具を無理やり剥ぎ取ってしまったら、一言も喋れなくなりそうだと判断するから、テキストを見ていても、見て見ぬフリをするのでしょう。

 あー、いいなあ~いいなあ~! わたしは大変な思いをして、しっちゃかめっちゃかな発表を終えるのに、テキスト見ていいなんて、いいなあ~いいなあ~! ずっる~い!

 …と、わたしが思わないかって? 思いますよ。そりゃあね。

 でも、基本的には、先生のこうしたやり方は、とても良いと思っています。人は一人一人みな違うのだから、扱われ方も違って当たり前。先生がわたしには「本を閉じて」とおっしゃるのは、何だかんだ言っても、わたしが本なしでもやりおおせられるから。確かにつっかえたり間違ったりは多いけれど、何であれ、やり遂げることができるから。つまりわたしにとってはテキストを見ずに発表するのがちょうど良いレベルの課題だと判断されたからです。

 皆同じ課題を与えられているように見えて、実はそれぞれの進捗に応じて課題の難易度が微調整されている。こういう匙加減って良いなあと思います。本当の公平っていうのは、こういうことだと思う。公平というのは、皆が一律同じ土俵に乗せられることではなく、それぞれが自分に合った土俵をあてがわれることだと思うから。人の土俵など気にせず、みんな自分に合った土俵で精一杯戦えばいい。自分のほうが斟酌してもらえることだってあるのだし。

 たとえば先日の文法テスト。満点近い出来で「ムムターズ(優秀)」のサインを貰っている人もずいぶんいましたが、わたしは間違いだらけ。優秀には程遠い出来でした。でも間違えたところを全部直してもう一度見せに行ったら、「ムムターズ」とわたしも書いてもらえました。

 後からテスト用紙を見ると、まるで最初から全部できたみたいに見える。これをズルだと思うならば、どうぞご自由に。わたし自身は全然ズルだと思っていませんがね。ただほんのちょっとオマケしてもらっただけです。

東京ジャーミイ
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