アラビア語

アラビア語学校の日常6 われら日本人

 「なんか、顔だちまでアラブ人っぽくなってきてない?」 この3週間の休暇の間に、このセリフを何度聞いたでしょうか。休暇中、久々に顔を会わせた友人たちの誰も彼もが、決まってこう言うのです。

 確かにメイクがどんどんアラブっぽくなっていく気がする。帰宅して鏡を見ると、自分でも思います。学校の女の先生方がとてもきれいなので、つい感化されてしまうのです。特に目が素敵。長いまつげに縁取られた大きな目は、ただ大きいだけでなく、楽しげな光を宿していて、それはそれは魅力的。この目をイメージして化粧をすると、アイシャドウにアイライナー、マスカラまで動員してもまだ足りない気がして、どんどん化粧が濃くなるばかりです。

 学校に入る前、わたしの中で「アラブ人」は、割としかつめらしい顔をした人々のイメージでした。アラブ人の多くはイスラム教徒で、その宗教戒律は厳しいらしいし、それを守って生活しているからには、生真面目な人々なのだろう、と。

 ところがこの学校の先生方はまあよく笑う人々です。面白いことを見つけては、或いは面白いことを作り出しては、ケラケラとよく笑う。その笑いのツボは決して日本人とかけ離れたものではなく、むしろ個人差のほうが大きい。つまり日本人同様、オヤジギャグに走る人もいれば、ワンパターンの畳み掛けでウケを狙う人、シニカルな笑いを好む人など、様々だということ。ともあれわたしは、楽しいことを探しているときの、或いはウケを狙っているときの、キラキラと瞳の中で光を躍らせている先生方の大きな目がとても好きです。

 そんなわけで、アラブ人の先生方に感化され、外見は少々アラブっぽくなったわたしですが、内面は逆。むしろ先生方との対比により、自分の日本人的な部分に気づく日々です。

 異文化と接触すると、その文化を知る以上に、自分の文化がよく分かります。それまで何気なく、空気のようにまとっていた文化が、形を成して見えてくる。1週間自宅を留守にして帰宅していたとき、まったくの無臭だと思っていた自宅に、ある種の匂いがあることに気づくのと同じで、慣れきった文化の衣を一時的に脱ぎ捨てることにより、自分を育てたその文化の存在を意識するのです。

日本人は正直者

 「僕は日本人の、正直なところが好きだ」と先生の一人がおっしゃったことがあります。イスラム教では飲酒が禁じられているという話をした後で、酒を嗜むかどうか一人一人に尋ねたときのこと、「カリーラン(少し)」「ウヒッブジッダン(大好き)」などとみな正直に答えたところ、「今みたいに、本当のことを言いづらいとき、或いはウソをついたほうが得に思えるときでさえ、日本人は正直に答える。だから日本人は信用がおける」と褒められたのです。

 なるほど。言われてみれば、日本人にはかなり正直者が多いかもしれません。厳密に言えば「日本人は」なのか、「アジア人は」なのか、或いは「人間は」なのか、それとももしかして、わたしの周囲の人々に限ったことなのか分かりませんが、少なくとも、わたしを含め、わたしの周囲はきわめて正直な人々の集まりであり、自分が嘘をつかない文化圏の中にいることは確かです。

 そしてそれは「嘘をつくのは悪いこと」だから嘘をつかないというより、いかに小さなウソであれ、どんな事情があれ、「嘘をつくのを苦痛と感じる」からです。おそらくウソをつくことが苦痛に感じるよう、幼いころから教育されてきたのでしょう。その教育の芳しい成果なのだと思います。まさに「文化」ですね。この正直者の集合体がどこまで続いているのかは分かりませんが、生まれも育ちも年齢層も異なる雑多な日本人アラビア語学習者の共通した特徴である以上、少なくとも「日本の文化」と考えて差し支えないように思います。

ウソがつけない日本人

 そのひとつの裏づけとして、たとえば会話の授業でもこんなことがありました。「私は海外旅行が好きです」から始まって、これまでに訪れた国について述べるという課題が出されたときのこと。枠組みというか、話す手順はだいたい決まっていて、どこへ行ったか、いつ行ったか、誰と行ったか、旅先で何を見たかなど、あらかじめ決められた内容に自分らしいアレンジを加えて話すのですが、しょっぱなから言葉につまってしまった人が何人かいました。海外旅行に行ったことがない人たちです。会話スキルの問題ではなく、嘘をつかないことには課題がこなせないので、困ってしまったのです。

 尤も、これはただの会話練習ですから、事実を求められているわけではない。「フィクションで構わないから」とも言われていたのですが、それでもこの文化の中では「フィクション」は「ウソの親戚」くらいの感覚なのですね。その証拠に、海外旅行の経験がある者は、わたしを含め、みな本当の自分の体験をつぶさに話していました。そういう雰囲気の中、自分だけフィクションを話すというのは事実上、不可能だったに違いありません。まったく罪作りなことをしたものです。フィクションを話しづらい雰囲気作りに、わたし自身、一役買ってしまいました。

文化の殻を打ち破れ

 二度目に似たような課題が課せられたとき、わたしは今度こそフィクションで行くことにしました。一度目の罪滅ぼしというわけでもありませんがね。ちょっとした冒険心を起こし、違ったことに挑戦してみたかったからです。

 けれどもそれは決して簡単なことではありませんでした。フィクションを話すことが、いかに後ろめたいか、思い知りました。「フィクション」=「法螺(ホラ)」≒「嘘」という図式がまるで鉄壁のように前に立ちはだかり、そこから出て行くことを拒んでいるかのよう。そういえば、語学検定の口頭面接でも、とっさにフィクションが口をついて出ないため、いつも苦労している。それはこの鉄壁のせいであったか、と気づきました。ならばいかに困難であろうとも、今日こそは、ここを切り崩して進むしかありません。

 わたしは一計を案じました。「今日はわたしは嘘で行くことにした」とわざわざ皆に聞こえるように大声で言ったのです。敢えて「フィクション」ではなく「嘘」という言葉を使いました。それが自分にとって真実であったからです。ああしかし、たかが会話の練習で絵空事を話すのに、なぜこんなお膳立て、決意表明が必要なのでしょう? カッコ悪いったらありゃあしない。情けなくて涙が出そう。でも仕方がない。こうでもしないと、文化の殻を破れないんですね、人間は。

 果たして、わたしのこの目論見は見事、成功を収めました。アラビア語のスピーチとしての出来はともかく、何はともあれ、行ったこともないエジプトに行き、見たこともないピラミッドを見たと発表することができたのです。

 尤もこの日、小さな人間の一歩にして人類の偉大な一歩を踏み出したのはわたしだけではありませんでした。他にも「昨日アメリカに行ってきた」という発表がありました。その人は「昨日」という現実にはありえないキーワードによって、それがフィクションであることを明示していました。だって彼は昨日もそこに座っていましたからね。第一アメリカって日帰りで帰ってこれるほど近くないし。わたしの決意表明よりははるかにスマートなやり方だなあ、と感心したものです。

どこが正直だよ、日本人!

 ことほど左様に、文化の壁を破るのは難しいものです。ところが、この正直文化がすべてに優先するかというと、そうでもないんですね。読解の授業で日本の茶道についての短文を読み「抹茶を点てられる人」と尋ねられたとき、手を挙げたのは、20名のクラスで一人だけでした。いくらなんでもお点前のできる人が20人に一人ということはないだろうと、先生が一人一人に改めてたずねたところ、やはりみな「ラー(いいえ)」という返事で、「カリーラン(ほんのちょっと)」と答えた人がわずかに一人だけ。先生は首をかしげて帰られました。

 ところが授業が終わったあと皆に聞いて回ると、「昔少しやってた」くらいの人が「ラー」と答えたくらいはまだしも、お免状を持っていても「ラー」、お茶の教室のお嬢さんが「カリーラン」と答えていたことが発覚。わたしは「どこが正直だよ、日本人!」とツッコミを入れると同時に「やっぱりね」と納得したのでした。なぜって「○○ができるか」と聞かれると、9割くらい平気で割り引いて「できない」と答える人が日本では多いことを、わたしは知っているからです。つまり謙遜の美徳の前には、嘘への罪悪感など問題にならない。というより「謙遜」は「嘘」のうちに入らない。昔から知ってはいたけれど、殊更に意識にあがってくることもなく漠然と通り過ぎてきたこの事実に、ここで改めて向き合うことにより、「日本の文化」の奥深さに改めて恐れ入ったわたしでした。

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