多言語

水面下の成果

塵も積もれば山となる」ということわざがあります。

 努力を続けているにも関わらず、遅々とした進歩しか見られないとき、大変励まされる格言です。

 しかしながら、外国語学習においては、塵さえ積もらない場合があります。

 そういうときは、この格言が仇になります。

 いかに些細な変化であっても、何がしかの変化があればいいのですが、頑張っているのに全く何の進歩も見られないとなると、このことわざは逆に「塵がなければ、山もなし」と思えてくる。

 一週間やってもゼロ、一ヶ月やっても成果がゼロなことは、一年やっても十年やってもゼロな気がして、無駄な努力思えてくる。

 ゼロに何を掛けたってゼロですからね。算数で考えてみても、至極真っ当な理屈に思えます。

ゼロが突然100に変わるとき

 ところが現実には、この算数が当てはまらない場合があります。

 一週間、一ヶ月、ずーっと「0」だったものが、ある日突然「1」に変わる。そして見る見るうちに「100」になる。そんなこともあります。

 昔、巻き舌のRの練習をしたとき(過去記事参照)、一週間しても何の変化も起こりませんでした。毎日、ヒマさえあれば「トルルルル・・・」と言っていたけれど、舌が巻く感触はまったくありませんでした。

 一週間全く何の変化もないことは、一ヶ月やっても一年やっても無駄だろうと思えました。それでも続けたら、それからほんの数日して突然、僅かに舌が震える感覚を覚えました。

 そのあとは早かったです。たちまち安定してできるようになり、「ルルルルルルルルルルルル~~~~~~~」と息が続く限り、ずっと舌を震わせていられるようになりました。

 アヒル口のとき(過去記事参照)は、もっと極端でした。ある日突然、「0」が「100」になりました。

 2、3ヶ月、毎日鏡に向かって練習していたけれど、全くできる気配はなかったのです。そういう口をした自分の顔を想像することすらできなかった。

 ところがある日突然、今まで見たことのない口をしている自分が鏡に映っていてビックリ。まじまじ自分の顔を見てしまいました。

 

 外国語を学んでいると、しばしばこうした奇跡に遭遇します。他にも、聞き読みや、外国語脳など。

 本当は「奇跡」でも何でもないのかもしれませんね。何もせずにできるようになったわけじゃなく、ずっと練習し続けた結果、できるようになったのですから。

 でも、やってもやってもまるで変化が見られなかったのに、あるとき突然、それまでの分を纏めて支払うような、劇的な成果が得られる。何度経験しても、それはやはり一種の奇跡のように感じます。

 一体どうして、成果はこんな現われ方をするのでしょうか。

 思うに、臨界点、もしくは閾値のようなものがあるのではないでしょうか。ある程度の練習量が溜まって初めて起きる変化があるのだと思います。地中奥深く、静かにマグマを溜め込んでいった火山があるとき突然噴火するように。

 つまり、「成果」として目に見える形で表面に現われない間も、水面下では静かに成果が溜まって行っているのだと思っています。たとえ知覚できる変化がなかったとしても、努力は決して無駄になってはいないのだ、と。

何を根拠に頑張るか

 けれども実際問題、成果が目に見えるその瞬間まで、全く先が読めないのは辛いです。

 「きっとできるようになる」という見通しがないと、なかなか努力って続けられないもの。途中経過の実績がゼロとなると、いつその成果が現われるかという見通しは全く立たず、または永遠に現われないかもしれないとも思えてきます。

 このジレンマを解決する方法は、わたしの場合、3つあります。

  1. ダメ元精神
  2. 類似の経験
  3. 先達者

の三つです。

ダメ元精神

 まずはダメ元、つまり「できる」と期待しない

 あひる口のときにはまさにこの「ダメ元精神」でした。やっていたのは一日数秒、洗面所の鏡の前に立ったときだけだったし、とりあえずやって悪いことはなかろう、できるようになるかどうかはわからないけど、とりあえずやっとくか、って感じでした。

 でも「できる」という期待が全くなかったか、というと、やっぱり心のどこかでちょっと期待していた気もします、いつかは分からないけど、いつかできるんじゃないかなー、と。だからダメ元といいつつ、続けられたのだと思います。

 ではなぜそんな期待が持てたのか。それはおそらく類似の経験が過去にあったからです。

類似の経験

 類似の経験というのは「巻き舌」ができるようになったことです。巻き舌だって、全くできなかったものが、ある日突然できるようになったのだから、あひる口だってそうかもしれない、と思ったとしても不思議はない。

 ではその「巻き舌」はどうしてできるようになったかというと、先達者がいたからだと思います。

先達者

 巻き舌の練習に関しては、「いままでわたしの生徒で巻き舌が一週間でできなかった者は一人もいない」という当時のロシア語の先生に騙されました(笑)。実際は見事、わたしがその一人目になってしまったわけですが(涙)、まあわたしもそれからすぐできるようになったので、文句は言えません。

 やはり先達の存在は大きいです。人類未踏の達成を信じて努力するのは至難の技ですが、多くの人が達成していることは、自分にもきっとできると信じやすい。

成果を焦らず待つ方法

 外国語学習におけるわたしのモットーは、努力を惜しまず、成果を焦らずです。

 成果があろうがなかろうが、努力さえ続けていれば、そのうちきっと何かしら役に立つ、と思っています。

 でも正直、成果を焦らず、気長に待つのはけっこう難しいです。

 なのでわたしは成果が出ない場合の安全ネットを用意しています。

 それは、

  1. 楽しくやる
  2. 努力の高を測る

こと。

楽しくやる

 やりたくないことを嫌々やっていると、「なんでこんなに頑張ってるのに成果がでないんだ」と不平を言いたくなりますが、学習自体が楽しく、好きでやるなら、それで十分モトが取れていると思えます。

 成果もあるに越したことはありませんが、日々楽しければ、成果のことはあんまり気にせず、気長に待つことができます。

努力の高を測る

 「どれだけやったか」を記録する、または記憶にとどめておくと、それを成果の代わりに励みにすることができます。たとえば、多読の語数数えや、Duolingoのストリーク数やレベルなど。

 インプットの量は、本物の成果ではありませんが、「これだけやったんだから、何かいいことあるはず」と信じる根拠になります。

 第一、たとえ何にもならなくても、一つのことを長く続けられたら、それだけで、ちょっといい気分じゃないですか。なんかちょっと人間的に成長したかな~?と思えて^^。

努力は報われるか

 外国語学習は、基本的にはやればやっただけ、成果が出ると思っています。スポーツや芸術と違い、個人差も少ないし、何しろ日本語を習得した実績があるのだから、外国語だってやればやっただけうまくなるはず。

 但しそれは、長期的に見た場合の話。

 短期的には、やってもやっても、成果が見えない時期があるのが現実です。

 「必ず成果が出る」と信じすぎると、却って辛い。

 「努力は報われる」と信じすぎず、半分くらい「ダメ元精神」を混ぜておき、楽しみながら続けたほうが、精神衛生上、良いんじゃないかな、と思っています。

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