多言語

いつもとは違う視点

 外国語で考えると、日本語で考えているときには気づかなかったことに気づかされます。たとえば昨日の作文

 なくした財布が見つかってわたしはとても感謝したのですが、じゃあ具体的に何に感謝していたかというと、実は自分でもよく分からない。財布を見つけて届けてくれた人、それを渡してくれたおまわりさん、安全な日本の社会や神様仏様、あるいは自分の運の良さなどに、バクゼンと感謝していた。

 でも英語やスペイン語など西洋言語は他動詞が多く、「感謝する」という動詞も他動詞で、必ず目的語をつけなくてはならない。すると「自分はいったい何に、あるいは誰に感謝していたのだろう」と意識的に考える必要が生じます。

 また、日本語で考えるときには、出会った人の性をいちいち気にしちゃいない。重要なのは「スーパーの店員さん」とか「おまわりさん」といった自分にとっての役割であって、性別はどうでもいいわけです。中には男性か女性か、外見から判断しづらい人もいますしね。今回のおまわりさんも、最初、どちらかわかりませんでした。

 でもアラビア語を始めて以来、人の性別を確認するクセがついてしまいました。アラビア語はもう、性別が分からない相手には、話しかけることすらできない言語なので。今回も、サイフをなくして慌てているクセして、頭の隅では冷静に「この巡査さん、女性だろうか、男性だろうか」と考えていました。

 こういうのが、外国語を学ぶ面白さだなあと思います。日本語だったら考えないことを考える。普段見ようとしないものを見ようとする。

 そして、いつもとはほんの少し違った視点から、モノを見ている自分に気づきます。

あしかがフラワーパークにて。大藤のライトアップ
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