中国語

なぜ自然でなくてはならないか

 外国語学習には「自然」という言葉がついて回ります。

 「赤ちゃんのように自然に習得」

 「ネイティブのように自然な会話」

にみんな憧れます。

 でも「なぜ自然でなくてはならないか」は意外と語られない。

 なぜ自然でなくてはならないのか。

 不自然だったらどんな支障があるのか。

 それを合理的に説明できますか。

赤ん坊も頑張る

 子どもを二人育て、いま孫を見ていて実感するのは、赤ん坊も、苦労なくして成長するわけではないということです。寝返りも、這うのも、立って歩くのも、大人を見て憧れ、自分も、と思って意図的に頑張るからできるようになる。体の発達という追い風があるから、たいていの場合、そんなに苦労しているようには見えませんが、たまに体の発達に先駆けて、気持ちが先走ってしまう子がいる。そういう子はとても苦労します。

 言葉の習得もそう。一見、周囲の会話をただ聞き流しているかのように見えるかもしれませんが、実は「聞き流して」などいない。人の話し声に聞き耳を立て、音を手がかりに、内容を知ろうとしている。だから徐々に意味と音が繋がっていくのです。

 もし「赤ん坊のように自然に」の「自然」が、「意図せずして」「自動的に」「苦労せずして」という意味なら、どれも間違い。赤ん坊はみんな頑張り屋さんです。そしてあんがい意図的。泣くのだって、ただ本能で泣いているのではない。大人の注意を引き、要求を満たすために泣くのです。

 ちょっと知恵がついてくると、媚も売ります。愛想笑いもします。大人の歓心を買おうとします。

 「自然」の象徴である赤ん坊も、見ようによっては極めて「不自然」な存在です。

 ただし、これを自然と呼ぶか不自然と呼ぶかは、単なる言葉の定義の問題。意図的な努力も作為も、それを「自然」と考えれば、全ては「自然」。でもそれなら、大人だって何をしようが自然なのだから、わざわざ「自然」にこだわる必要はないわけです。

ネイティブのように話す利点

 「ネイティブスピーカーのように自然に話したい」は、誰しも抱く憧れだと思います。

 ではなぜそう思うのでしょうか。ネイティブではない人間がネイティブのように喋ると、どんな良いことがあるでしょうか。

 一番の利点は、「ネイティブのように話せば、ネイティブの懐に入れる」ことだと思います。聞きなれない言葉のクセは警戒心を抱かせる。それを取り除けば、スッとネイティブの懐に入っていかれる。それは確かです。

 たとえば中国ツアーに参加すると、おみやげ屋さんで日本人観光客を出迎える中国人はみな一生懸命日本語で説明してくれます。かなり達者な人もいます。でもたいてい、リズムが違う。日本語は音節の長さが緩急自在。でも中国人が話す日本語はまるでメトロノームのよう。おそらく中国語の影響だと思いますが、音節の長さが一定なのです。そのリズムでどんなに「お買い得」、「効果抜群」と言われても、騙されている感が半端なく、こっちは胸の警戒アラームがピコピコ鳴りっぱなしです。

 ところがたまに日本語のリズムまでも習得した、ものすごく日本語のお上手な方がいるのです。とある真珠クリーム店にいたのはそんな方でした。この方の日本語は緩急ある「自然な日本語」で、柔らかく温かみのある話し方。日本語を話すときは顔つきまで日本人ぽくなっちゃって、同じ口上でも、この人が自然な日本語で言うとなんだか信じられ、最初は全く人気のなかった真珠クリームが、この人が出てきた途端、バカ売れでした。実を言うと、わたしも買いました。

 「ネイティブのような自然な話し方」にはそういう効用があります。同胞だと認識させ、警戒心を解いてしまう。これはもう、理屈じゃない。一度経験してみると分かりますが、自然な日本語に対しては、自分でも呆れるほど無防備になる。

 しかしネイティブの懐に入るのは、必ずしも良いことばかりではありません。相手の懐に入るということは、自分も相手を懐に受け入れるということ。つまり干渉を許すということ。他者という認識があるうちは適度に遠慮しあってうまくいっていた関係が、同胞と認識された途端、軋轢に変わることも。部外者と認識されていたほうが、程よい距離感を保ちやすいのもまた事実です。

なぜ自然を尊ぶのか

 「自然」へのこだわりは、伝統に織り込まれた日本人の美意識です。どうしたら自然に見えるか、作為的にみえないか、ということに、日本人は古くから腐心してきました。

 西洋の庭園は左右対称を好み、幾何学的な形に樹木の剪定しますが、日本庭園は、石でも樹木でもできるだけ規則性を感じさせないように配置します。

 和食器もそう。洋食器のようにガラを統一したりせず、ガラス、陶器、漆器など、様々な素材、テイストの器を取り混ぜ、できるだけ「偶然に集まった」感を装うのが、日本の食卓の伝統です。

 日本人の美意識において、「作為が見えること」=「不自然」=「無粋(カッコ悪い)」なのです。

 不自然なことになにか実質的なデメリットがあるわけではなく、ただ単に美意識の問題。つまり、カッコワルイから嫌うのです。

自然とは、そんなに価値のあることなのか

 なぜ

 「赤ちゃんのように自然な習得」

 「ネイティブのように自然な会話」

にこだわるのか。

 なぜ自然でなくてはならないのか。

 自然であることに、どんな実質的なメリットがあるのか。

 一度考えてみるのは、無駄ではないと思います。

 「赤ちゃんのように自然に習得」できたらカッコイイ

 「ネイティブのように自然に会話」できたらカッコイイ

ただそれだけのことかもしれません。

 そして、格好の良さ・悪さを割り切りさえすれば、今まで「不自然」というだけの理由で切り捨てていたものの価値に、気づくことになるかもしれません。

真珠クリーム
中国で買ってしまった真珠クリーム
タイトルとURLをコピーしました