英語

後悔しているヒマが惜しい

 昨日は実家に両親、妹の一家、うちの家族が集い、一日にぎやかに過ごしました。

 テーブルを囲んで皆で喋っていたら一時、英語の話題になり、大学3年の甥っ子が「一年上の先輩が卒論を書く英語で苦労しているのを見て、やっぱり英語はやっとくべきだったと思った」と利いた風な口をきくので、わたしも両親も大笑い。

 まだ二十歳そこそこで何言ってるの。卒論で苦労するなら、そこで思う存分、苦労すればいいでしょう。そしたら修論のときは苦労が少なくて済むでしょうよ、と。

 どういうわけだか、若い人ほど「○○をやっておけばよかった」と後悔する。やりたいことがあるならこれからやればいいだけの話で、過去を悔やむ必要はないのに。

 でもその気持ちもよく分かる。なぜって自分も若い頃、そうだったからです。

 子どもの頃は、みんな一斉に小学校に入り、中学、高校と進学するからか、同年齢の仲間というのは常に一緒に進級していくものだと思い込んでいて、ちょっとでも同級生から遅れをとったりすると、もう二度とその遅れは取り戻せないんじゃないかという気がして怖かった。

 自分がしてこなかったことを修めてきた同級生を見るとやたら羨ましく、自分の来し方を後悔してみたり。「来し方」ったって、まだ物心ついてからろくに人生生きてないんですけどね。

 それでもまだ昔は浪人して大学に入る人も多かったから、18歳の時点で年齢の横並びが崩れたけれど、最近は浪人する人も少ないので、今の若い人の横並び傾向は昔よりもいっそう強まっていると思う。

 本当は、人から遅れを取らないことより、その横並び思考から脱し、独自路線を築くほうが100倍も大事なのだけれど、若いうちはなかなかそれが見えない。

 娘たちを見ていても、同級生との横並びを常に意識しているなあ、と感じます。やりたいことがあっても、同級生から遅れるようなことがあってはならないという思いが念頭にあるので、思い切った選択をしづらい。

 そういう横並び意識というのも、それが努力の根拠になっているうちは、まあ功罪相半ばするといったところだけれど、ひとたび横並びから完全に脱落し「もう無理。取り戻せない」と諦めてしまったときが怖い。ありとあらゆる気力を失いそうで。

 また、横並びの崩れは、前倒しなら一向に構わないらしく、なんでも前倒し、前倒しされていく傾向にある。

 ことに外国語学習に関しては「早ければ早いほど良い」とされることが多く、最近では低年齢化どころか「英語胎教」なんてのまである。

 まあ個人でやる分には、いつ何をしようがいいと思いますが、ただこの傾向があまりに普及しすぎて、また一つ横並びの尺度が増えるかもと想像すると憂鬱。小学生が「今から英語をやるんじゃ遅い」なんて思い始めたらどうしよう?と心配になります。

 それに引きかえ、わたしの年代ともなると、生きるのがラクです。

 なんたって、「横並び」をしようにも、みんなあまりに違いすぎて、どこを基準にすべきかも分からないものね。結婚している人、いない人、子どものいる人、いない人、子どもの年齢もさまざま。いつ学校を出て、いつ働き、いつ転職し、いつ仕事を辞めたか、いまも続けているか、再就職したか、仕事の形態も、どれくらい働くかも人によってまちまち。

 それどころか最近、同世代の訃報を聞くようになってきて、まだ生きているか、すでにこの世にいないかも人それぞれ。

 人生の折り返し地点が何歳なのか、はっきりとは分からないものの、さすがに50代ともなると、確実に過ぎているに違いなく、もはや人と横一列に並んでいるヒマはない。そろそろやりたいことだけに絞っていかないと、何もしないうちに人生を終えることになるゾ、と逆算して考える。

 人と比べて焦ったり、遅すぎると悩むヒマも惜しく、やりたいこと、思いついたことからどんどんやっていくしかない。

 結果、20代の頃よりも、50代の今のほうが、まだ自分は若いような気がしているから面白い。

 20代の頃は、10代と比べて「わたしはもう若くはない」と思っていたのに、今は80を過ぎた両親と比べて「わたしはまだ若い」と思う。

 だから「○○しておけばよかった」などと思う必要はないのです。そう思うなら、今からやればいいのだから。

古代カルタゴの軍港跡
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