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私がゲームから足を洗ったわけ

 かつてわたしはゲーマーでした。こう見えても、ある分野においてはそれなりの戦歴だったんですよ。

 得意なのはパズルゲームと落ちモノ。ぷよぷよとかテトリスとかです。スパイダーソリティアも勝率5割。あるゲームサイトで記録した最高得点は、7年間、誰にも破られませんでした。

 華やかなゲーマー人生(?)を送っていたわたしですが、10年ほど前にすっぱり足を洗い、外国語学習に転向しました。

 その理由は、ゲーマー人生に未来はない、と感じたからです。

 ゲームは楽しい。いろいろな課題(ミッション・クエスト)を与えてくれ、それをクリアすれば、達成感を感じさせてくれます。

 でも、その達成は虚構であることに、あるとき気づいてしまった。

 ・・・いや、おそらく最初から気づいていたけれど、気づかないフリをしていたのでしょう。最初はその作られた達成感に甘んじていた。でも次第に虚しくなってしまったのです。

 だってゲームは、元からクリアできるように作られているからです。その困難はちゃんと克服できるように緻密に調整されている。ちゃんとエンディングが見られるようになっているわけです。

 どんなレアアイテムも、自分で見つけたように見えて、実はそれは意図的に仕掛けられ、最初から見つけられるように仕組まれている。

 ゲームの世界では、どんなに自分が自主的に行動しているつもりでも、実際は、メーカーという創造主の掌の上で踊っているに過ぎず、そこから決して出られない。

 良いゲームであればあるほど、そのゲームバランスは絶妙で、プレイヤーを絶望させず、なおかつ、簡単過ぎないよう、精密に調整されています。

 出来の良いゲームほど自由度が高く、なんでもできるような万能感を与えてくれる。そして、自分自身の頑張りと判断でゲームがクリアできたと思わせてくれます。

 けれども実際には、そこで得る達成感はプレイヤーを虜にするため巧妙に仕組まれた罠であり、どう動いても、創造主の裏をかくことはできない。

 一方で、実社会は未知数だらけ。外国語学習もそう。「これをやったらこういう達成が得られる」という保証はどこにもありません。

 いま目の前にある道を歩いていっても、どこに出るかも分からない。もしかしたら行き止まりかもしれない。

 ゲームなら、エンディングに通じる正しい道が、どこかに必ず存在する。

 でも実社会には、絶対確実な道などどこにもなく、どの道を選んでも結局全部行き止まりかもしれないのです。

 必ずどこかに通じると分かっている道と、もしかしたら行き止まりかもしれない道。同じ道でも、道を行く困難さはまるで違う。後者のほうが何倍も何十倍も困難です。

 「コロンブスの卵」の寓話が示すように、「できる」と分かっていることをするのと、成功が未知数のことをするのとでは別物なのです。

 実社会はゲームの世界とは違い、先の見えないことだらけです。ゲームの世界に慣れた身にとって、ここを歩むのは正直、辛い。

 だけど少なくとも、ここでは自分が主役。いま目の前にある道は、もしかしたら行き止まりかもしれないけれど、もしかしたら新たな可能性を開く道かもしれない。

 わたしは外国語学習において、小さいけれど、新たな可能性をいくつも開いてきたつもりです。

 アラビア語検定6級に受かったとき、アラビア語を教えている方に驚かれました。「アラビア語って独習できるんですね!」って。

 アラビア語検定4級に受かったときも、周りがみんな驚きました。「4級って、留学経験のない人でも受かるんだ!」って。

 3級を受けたときは、受ける前からみんなに言われました。「留学経験がないと、3級はさすがに無理よ」って。でも受かりました。

 スペイン語の通訳案内士は、学習を始めた翌年に受けて受かり、「外国語習得には10年単位の時間がかかる」という常識を覆しました。

 その二次試験は着物で受けに行き、「着物で受かる」という先例を作りました。そしたら通訳案内士を着物で受ける人が増えました。

 衣類が合否に関係するなんて、「あるわけないじゃん」と思いますか? でも前例がないと、そこが100%確信できないのです。4教科の合格を揃え、やっと勝ち取った一次の栄冠が、たかが着るもの一つでオジャンになるかもしれない。いま考えても、よく着物を着ていったなあ、と自分で思います。

 「論より証拠」とよく言いますが、前例がないというのは、「論はあっても証拠がない状態。先例がないというのは、そういうことなのです。

 一度前例を作ってしまった今、何度だって安心して通訳案内士を着物で受けに行かれ、たとえ落ちたとしても、それは着物のせいではないと確信できますが、最初の一度目はものすごい冒険でした。

 これが、わたしの新天地の開き方です。先例を作り、不可能ではないことを、身をもって立証する。

 といっても、好き好んで道を開拓しているわけではありませんがね。たまたま自分の前に先例がなかったから仕方なく。

 でも少なくとも、誰かに仕組まれた道を歩いているのではなく、結果として、何もない野っ原に、自分で道をつけたのです。先達がつけてくれた道がなくても諦めなかった。

 その価値は、やったことのない人には決して分からないでしょう。

 でもわたし自身は知っている。

 先例のないことをすることがどんなに不安で心細いか。たった一つの先例の存在がどんなに心強く、有難いか。それを知っているからその価値が分かるのです。

 そしてそれは、ゲームの中では決して見られない、新たな地平。小さいけれど、確かな新天地です。

 わたしは一概にゲームを否定するつもりはありません。ゲームはわたしにゲームバランスの大事さを教えてくれた。それは外国語学習を進める上で、いま非常に役立っています。外国語学習にゲーム要素を取り入れることにも大賛成です。

 今日ではオンラインゲームで英語を習得する人も、決して珍しくありません。DMMでそういう先生にこれまで何人も会い、その英語力の確かさをこの目で見てきました。実はうちの甥っ子たちも、オンラインゲームで図らずも英語力が鍛えられちゃったクチ。これからはそういう人がますます増えるでしょう。

 でもわたしは、ゲームの世界にはもう戻らない。

 虚構の世界で仕組まれたヒーローになるより、実世界で小さくとも未知の地平を開きたいからです。

スペイン・アルハンブラにて
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